気が付かなかった真実、いま目の前に立っている。飾磨司さん、それらしい人物が私の前に立っている。
夢だと思いたかった。しかし、何度頬を抓ってみても一向に夢から醒める気配はない。きっとこれは現実だ。遠くのグラウンドからは部活動の活気のある声が微かにこの小屋に反響しており、これも加担している。
何故こんなことになったのだろうか、今日の朝は何気ない1日を予感させるほど、代わり映えのない青空であったと記憶している。いつもと変わらず朝起きたら「おはようございます」を言い、普段と変わらずパックご飯とインスタント味噌汁を食卓に並べて、「いただきます」を言った。そして、学校では本物の司さんと何気ない会話をして、昼食をとっていたはずだった。
だが、そんな平穏な日々がガラガラと音を立てて崩れていく。そう、毎日毎日繰り返すこの代り映えのしない最高の日々に、何者かによって異物を放り込まれてしまったように。
「あなた……誰ですか? 本物の司さんは……?」
返事がない。
そして、ソレは一切表情を崩さずにこちらを見つめ続けている、まるで突拍子もない発言をした子供を優しく見つめるような。これが本人だったら喜びで頬が緩んでいたが、目の前にいるのは彼女では無い。もっと別の悍ましいナニカだ。
ソレが司さんでは無いと気がついたのは昼を過ぎてからだ。
司さんが5限目の授業で体調不良のため保健室に行ったあと、彼女に会うため保健室を覗いた。その時の光景は今も焼き付いている。
人工光の冷たく無機質な明かりの元、司さんの口や体、穴という穴からなにか得体の知れないものが出入りを繰り返していた。グロテスクでいかにも海洋生物といえるような触手が蚯蚓のように伸縮を繰り返し、別の場所からは甲殻類の脚がいざいざと動いていた。
くすんだ青色に白の縞模様が不規則に節のように構成され一層嫌悪感を湧き立てる。妙に光沢のある足も何本か含まれており、堰を切ったように胃の内容物が喉まで迫り上がる気配がした。
わき目も振らずトイレに駆け込むと、1番奥側の扉を乱暴に開け、便器に胃の中身をすべて吐き出した。シンと静まり返ったトイレの中で、ボドボト耳障りな、やけに大袈裟な水音を立てて吐き出されていく。すべてを吐き終わり、荒い呼吸のまま床に膝をつき、一点を見つめた。
嘔吐物は水面に漂う軽いものと、排水口に沈んでいった固形物とに分かれている。最後に食べたミニトマトは皮をボートのようにしてジェルを纏った種が淀んだ水面をプカプカと浮かんでいた。嘔吐した後も吐き気は収まらず、口にはごちゃごちゃの味が広がり、喉を掻き毟りたくなる搔痒感とともに憂鬱な気分のまま、30分ほどセラミックと嘔吐物のコントラストをじっと見比べることとなった。
きっと気づかれている。トイレに駆け込む前、動揺して壁に体をぶつけてしまい、逃げる姿を目撃されてしまったかもしれないから。だから、いま”司さんモドキ”を問い詰めている。
いつまで経っても返事はない。私は痺れを切らしてもう一度口を開く。
「あなたが司さんでないことはわかっているんです! 司さんはどこですか??」
またも返事はない。しかし、モドキの表情に驚きが追加されている。その後はこれを誤魔化すように目をつぶった。
これは、なにか良い言い訳を考えているのだろうか、たっぷりと時間をかけてどうにか私を納得させるような言葉が。
「……依子?何言ってるの?流石に笑いどころが分からないわ……」と、困ったような笑顔をこちらに向けた。これが昼下がりの光景と重なり、怒りが湧いてきた。
このモドキはあろうことか司さんを模倣し、あまつさえこちらを騙そうとしている。そんなことは許していいはずがない。そのために対峙している。
得体のしれないこの生き物に本物の司さんの居場所を聞き出すために。そのために少ない時間で準備をした。
「よ、依子……?? 何を……!?」
「何って?包丁ですよ、あなたが司さんの居場所を知っているのはおおよそ間違いないんですから、いいですよね?喋る口さえあれば手足とかいらないですよね??」
「ちょっ!やめなさい!! 斬られたら出血で死んでしまう……」
「ふふっ……そうですか? 見たんですよ、その体から本体らしき触手が。纏っている肉の塊は軽くしてあげます」
モドキは焦り始めた。なんとか私を説得しようと身振り手振りを交えて伝えようとしているが、最初から害そうとしている人間にこんな|易《やす》い説得が通用するだろうか。やるなら徹底的に、生ぬるいものは鬼でも食わないのだから。
私はそう心に誓い包丁を両手に持って、突き立てる。
「まっ!……待てっ! これは司の肉体だ!!」と、いつもの声色から、精彩を欠いたような声色へと変わった。
「はぁ!!??」
その言葉を聞いた瞬間、爆発的な感情が弾けた。持てる力いっぱいに目の前のものを殺すために、全体重をかけて、心臓がある辺りをえぐりこむように深く刺す。その勢い余ってもたれ掛かるように体勢を崩してしまった、だが何かに刺さった確かな感触と、返り血のような温かい液体が手の甲に当たるのを感じ、この会心の出来に思わず笑みがこぼれそうだった。
馬鹿げたことだ、もうこれ以上司さんを騙らせない。そう内心で吐き捨てるように言うと「話を聞け……」とおよそ瀕死には聞こえない声が聞こえた。はっ、としすぐさま顔を上げ退くと、予想とは違い包丁は刺さっておらず無傷で、相手は額の汗を拭っていた。「これは本物の司の体だ」と言いながらハンカチをスカートのポケットにしまった。
肝心の突き立てた刃先は袖から出てきた弾力のある触手に寸でのところで絡め取られており、肉体の方まで届いていない。触手はそこからもう3本出て、握った包丁を奪われてしまった。驚く間もなく、それと同時に触手が両腕まで伸びて腕を上げさせられ、強制的に「バンザイ」の体勢を取らされた。余ったもうひとつは右足首から太腿にかけて絡みつき靴下も粘液でじっとりと濡らしている。
絡みついた触手の感触は文字通り最悪で、きっと牛や豚……または人間から生きたまま大腸を引きずり出して素手でつかんだらこんな気分になるだろう。弛緩と収縮を繰り返すそれは脈動のようで定期的に手足へ刺激を与え、いつでも縊り殺せると言っているようだった。
体内に潜んでいたであろうそれは陽光の柔らかい光を受けてヌルヌルと、そして生暖かく生理的嫌悪感のある悪臭をまとっている。
これがきっかけとなり、今まで必死に抑えていた吐き気がピークに達し、吐しゃ物を床にぶちまけてしまった。トイレで吐いたばかりで、空っぽの胃袋から出た液体は黄色っぽいサラサラとした液性で、抵抗もなく簡単に地面に広がっていく。この部屋には嘔吐液の臭いと粘液の臭いとが混じって漂い、口の中は苦味で逃げ場がなく乾嘔が止まらない。吐こうとするごとに、過剰生成された唾液が口内からあふれ出し、ぼたぼたと床に広がった液と混ざり合っている。
「……っ!! グッ……ハァ……ハァ……さっきの……っ、は゛なし……どういうことです……ッ……ウッ……!か……??」
「んっ……?だからワタシは司の体を動かしてい……ウン……?」
モドキは靴に触れる液体を少し気にしながら続ける。
「ゴホン!司の体をつかってワタシは活動をしている」
「そん…な……出入りしてた……触手は…………っ!?ウッ……!! こ!!殺したんですか……!!??」
「……その問いはノー、ワタシは殺していない。だが…………そうだな、宿主の司は死んでいる ……いや、肉体は生きていると言った方が正しいか…………。」と時間をかけ、こちらの目をしっかりと見ながら言った。
「……そうですか、寄生虫というやつですか………………はぁっ!?」
私は驚いて口を閉じた。だが驚いて口を閉じたのは、司さんが死んでいるということについてではなかった。驚いたのはその後の自分自身の発言についてだ。
ヤツの「宿主の司は死んでいる」という発言に。もっと取り乱してもいいはずだ。怒っていいはずだ。先ほどの包丁を突き立てたほどの爆発力でもがいてもいいはずだ。だのにしなかった。
そこに心底驚いていた。なぜこんなに頭が冷えているんだ。
「どうした? いきなり黙り込んで?」
モドキが覗き込んで、そのついでに私の口元にへばりついた液体を拭った。拘束されていて、もう危害を加えられる心配がないので余裕綽々。以前に彼女にお世話をしてもらったことを思い出されて、司さんの体で不愉快極まりない。
「……いえ、混乱しているだけです。質問いいですか?」
「ん? いいが……。答えられることは少ない……」
「いいですよ、別に全てを知りたいという訳では無いですし、ただの雑談みたいなものです」
それを聞いたモドキは心底不思議そうな顔をしていた。友を失った現実を直視し、ショックで狂ったとでも思われたのだろうか、警戒をして一歩下がった。
だが今はモドキが思っているだろう気の狂いとは真逆に、かつてないほど冷静であり、その証拠に次々と質問する内容が湧いてくる。
「では、あなたのことはなんと呼べば?」
「……呼び名?? ”司さん”と呼ばないのか?」
「はぁ⁇」本気でそう思っていそうな反応で虫酸が走る。
薄々わかっていたことだ、人格はあるが人間性はないようだ。話が通じるだけでも幸運だとは思うが、決定的に分かり合えないということだけは判断できた。
「あなたは自分で、司さんは”死んでいる”といったでしょう?あなたとは違います!!」
「そうか……、なら依子が決めてくれ ワタシには名前はない」
「そうですか……ならあなたは……いいえ。 別にいらないですね」
「ないのか……そうか、ならいいんだけど」少し寂しそうだった。
ずっと両手をあげさせられる体勢で腕が痺れてきた。ヌルヌルとした触手から垂れたすえた臭いの粘液は服に染み込み、二の腕まで達している。
この悪臭を嗅ぎ続け嗅覚が鈍麻しているが、不愉快な臭いは粘っこく鼻腔に滞留しているため完全に慣れることはない。
ふと、この粘液は司さんの体液であると考えた。触手から出ていても、彼女から出てきたのなら変わらない。今まで彼女の使用したスプーンや空き缶を有難がって喫していたことや、ハンカチについた血や浸出液の匂いを薫らせていたことと何の違いがあるだろうか。
しかし、この突如沸いた感慨のあとは何も続かなかった。もし、彼女の体液だったとしてもこの触手に体の至る所を冒涜され、穢されているだろう。
だがそれも別に構わない。もう二度と逢えることはないのだから、どうなっていようと意味は無い。
「では質問です。あなたは入った人間を模倣するのですか?」
「そうだな、ワタシは宿主の脳の情報を使って、感情、思考パターンを模倣する」
「……わかりました、では次の質問です。司さんの死因はなんですか?状況も詳しく教えてください」
「司の死因は溺死。堤防を歩いている所を躓いて海に落ちた。岩礁に服が引っかかってもがいているうちに意識を失い、そのまま心停止した。これで全部だ」
モドキは司さんの死因を淡々と語ると、こちらの目を見た。今回はまるでこちらの気持ちを推し測ろうとしているような、「この話を聞いてどうだ?」そう言わんとしているような興味の瞳だった。やはり理解することは不可能だ。
「そうですか、では最後の質問です。司さんは私についてなにか考えていましたか?」
「なにか……、とは?」困惑の様子が伝わってくる。
「私のことをお荷物と思っていたかや、哀れみを持っていたかです。それだけ聞けたら悔いは無いです」
「……依子が何を期待しているのかわからないが、司は…」
「ま、待ってください!!」
「ん……??どうした?」
思わず大きい声を出して、モドキの声を遮ってしまった。これは聞きたくなかったからではない。期待してしまったからだ。
中学生のころから一緒にいてこれからも一緒にいると思っていた人の最後の気持ち。自分でもわかっているはずだ、司さんは私に特別な感情はなく、情けない私に義務感で付き合ってくれていることに。司さんは優しい方だから、そうであった方が私としても気は楽だ。
しかし、どこか期待してしまう心が表面へと発露してしまった。
「すいません……気持ちの整理ができていなかったです。……その前に私のきもちを聞いて貰えませんか?どうせ死ぬなら、吐き出してしまった方が良いですし……」
「…………。」
モドキは快い顔をせずに黙っている。呪詛の言葉でも吐くのかと身構えているのだろうか。当然だ。司さんにいつも介護されている身であり、劣等感を拗らせているとでも思っているのだろう。
だが残念、今から私が吐くのは「愛の告白」だ。
今のいままで外部に出すことのなかった、またこれからも出すことのなかった自分だ。このまま朽ち果てさせていくのならいっそすべてをさらけ出してしまった方が良いと判断したために、口を開く。
「……はぁ、ふぅ……。 私は司さんがすきです。欲しかったんですよ、私を見てくれる人が。私の目を見てキモチをぶつけてくれる人が、叱ってくれる優しい人が……それが司さんでした。昔の自分は何もありませんでした。友達もいない、目標もない、夢もない、趣味もない。ただ惰性で生きる日々に……!そんな何もない私に意味を与えてくれた!だから私は司さんがすきです。まさか、司さんが死んであなたに伝えることになろうとは思ってもみませんでしたが、これが私のきもちです……」
きもちを吐き出してスッキリした。あとは、司さんの気持ちを聞くだけ、心の奥底にある私への負の感情を。
「終わりました。司さんのことを聞かせてください」
「わかった、では単刀直入に言う。司は依子のことが好きだ」
「……はぁ??」
また爆発した。しかし、感情が急激に冷えていく、司さんがそう思っているなんて有り得ない、こんなきもちわるい私を。認めたくない、認めたら私のしてきたことはみじめで滑稽な笑い話だ。
現に心の底で嗤っているのだろう、モドキが、極上の喜劇をどうもありがとう、とほくそ笑んでいるのだろう。
もがいても数センチしか動かず。「だから、言っただろう」とでも言うように、モドキは涼しい顔をしている。全てが気に入らない。
「……別に依子の話に同情してでまかせを言った訳では無い、これが”司の気持ち”だ」
「……そうですか、わかりましたありがとうございました。嘘ですね」もう聞きたくない。
「おい!聴け!司が依子に抱いている感情を説明してやる、そうしたら納得するだろう。まず……」
モドキは司さんのことを語り始めた。思っていること、感情、好きの程度……淡々とコンベアーのように流れて行った。
私もそれを淡々と受け入れていった。反応して泣くことが出来たら良かった、だが、悲しいという気持ちは起こらかった。あったのは後悔だけ、胸を貫くような痛みを感じているのに不思議とすべてが色を失い冷めているように見える。本当に総てが嘘だったら良かったのに。
もう永遠に会えないから、私のアイデンティティは何処にもいないから。どうせなら嘘でも、「嫌い」と言ってくれた方がまだ温度を感じられそうだ。
「……そうですか、司さんは ふふっ……あはは!!」
「ついに狂ったか……」私をみるモドキの瞳には、悲しみと安堵の感情が浮かんでいるように見えた。
「ふぅ……いいえ、狂ってはいませんよ。ただあまりにも馬鹿らしくて……。私のお願い聞いてくれませんか?」
「…なんだ?」
「司さんを解放してください」
「!?……依子、自分の立場がわかっていないのか??」
モドキはぎょっとして、触手の拘束を強めた。ブヨブヨとしていた触手は鋼の硬度へと変化し、私の腕を締め上げている。
狂人は何をやってくるか分からない、そんな危機感からだろうか。ミシミシと骨が軋み、痛みが遅れて鈍くやってきた。奥歯が割れそうなほど強く噛み締め叫ばないようにしたが、本当に気が狂いそうだ。もう少し圧迫が強かったら腕はへし折れていた。
「……驚いた、悲鳴のひとつもあげないとは…」
「ハァ……ハァ……それは……どうも…………っ!! ……別に無条件という訳ではありません……。私の体を提供するので、司さんを解放してください」
「おまえ……イカれてるよ。ワタシのメリットは?……まぁ話ぐらいは聞くが」
モドキは半ばあきれながらも、右腕の拘束を緩めた。意外と丁寧な動作で腕は解放されたが下に降ろすと同時に袖を留めていたボタンが落下し、腕の惨状が露わになった。
限界近くまで搾り上げられていた部分は内出血で黒ずんで、冬の乾燥し鋭利な空気が破れたばかりで過敏になった皮膚を刺し苛む。手首から先は鬱血して青白くなっており感覚がなく、指先を動かそうにも激痛が走り、急激に圧迫された影響で神経がおかしくなったのか重力に従いプラプラとするばかりでピクリとも動かない。痛みで意識を失わないのが、自分でも不思議に思うほどだった。
「それは……ありがたいですね……っ!!はぁ…………。まず、ひとつは家に誰も居ないことです、私ひとり。そして、友達が居ないことです、私を心配する人は誰もいない。この2つがメリットです」
「脳内麻薬か……??よく口が回る……だが、弱いな……」
「なら、他にも……多分あなたは司さんの家族を負担に思っているでしょう?私ならその心配が無いです、そしてお荷物の介護も今後不要になる、今日の5限の体調不良もそれに起因するものではないでしょうか?それが最大のメリットです」
一息で言い終わるとモドキの様子を伺った。判断に困るといったように瞼を閉じて黙っていたが、急にズルズルと触手の拘束が解かれ左腕も自由になった。それと同時に脚に絡みついていた触手も袖に戻っていき、完全に自由の身となったが脚も腕と同様に痕が生々しくついており、バランスを崩して膝をついてしまい冷えた胆汁の感触を味わった。
だが、そんなことも目の前の出来事に比べたら、気にするのも無駄だと思い顔を上げた。
「取引成立ですか?」
「あぁ、おまえを生かしておくとワタシは間違いを犯しそうだから、その話に乗る」
「それは光栄なことですね」
「そうだ……?立てるか?勢い余って怪我をさせてしまった……」と、言ったモドキの顔は優しくどこか見覚えがあった。本当は、どうせ死ぬのなら他人にたいしてやる「悪態」などをついてみたいと考えていたが、一気にそんな気分が薄れていく。
「すみません、立たせてください」
「お安い御用だ」
モドキは膝をついて私に手を貸そうとしてくれたが、右腕をもたげて静止させた。最初は私のこの行動に不審な顔をしていたが、私の意志に気づいたのか後ろから羽交い締めの要領で立たせてもらい、無事な左脚と補助で触手を当て、右脚をかばいながらなんとか直立する。
「なにか言い残したことはあるか?聞いてやるが……?」と、奪った包丁を私の首に当てながら聞いた。冷たい刃先が少し震え、緊張が伝わってくる。
「そうですね……。」思案する。
このやり取りで私の「モドキ」への評価が少し変化していた。まったく理解不能の化け物だと思っていたのに、こちらを気遣う素振りや、人間のような表情に司さんの面影が見え、心が揺らいでしまっている。だが、もう生きる意味を消失してしまった私がどうしたら幸せになれるだろうか、そればかりが頭に浮かんでいる。もし、5時限目に保健室を覗かなかったらこんな結果になっていなかったのかもしれない。普通に授業が終わって、普通に彼女とおしゃべりして、普通に一緒に帰る。そんな日常が続いていたかもしれない。しかし、いずれこの真実に触れてしまうのなら、真綿で首を絞められるくらいなら、今の選択が”私が辛うじて幸せになれる方法”だとしか思えなかった。
「うーん……なら、私は”司さん”の手で死にたいです」そう、死に際まで少しでも誰かに触れられていたい。たとえ、彼女の温もりがここになくても。
「は?」モドキは意味が分からないと戸惑っている。
「司さんですよ、あなたの宿主。あなたではありません、司さんに手をかけて欲しいです。私は絞殺を望みます」
「……本当にイカれてるよ」呆れ半分、納得半分。
「そうですね、司さんがいなければこんなものですよ」
「…………。そうか」
最後モドキは何か言いたげだったが、持っていた包丁を地面に刺すと触手を体の中に戻した。すると、いつも見慣れた司さんの雰囲気をまとった他人が現れた。
さながら人形遊び、司さんの姿をした肉人形で遊ぶ私。そう自嘲したが今まで彼女にしてきた「きもちわるい」行為の延長線上にあると考えれば変に納得した。死の恐怖はあるが、今更足掻いていても仕様がない。
私は目を瞑り、腕を前に突き出し彼女の抱擁を待つような格好で最期の時を待っている。彼女は何も言わずに腕を伸ばし、それが首元まで到達した。スーッと伸びてきた指は暖かく、汗で濡れている。
これから殺されると思うと、司さんとの思い出が走馬灯のようにフラッシュバックしてきた。彼女の怒り顔、笑顔、困惑顔、泣き顔、テレ顔。
その隣にいる私は……。どの思い出をとっても自分を偽っている時のものばかり、本当の自分は何処にもない。そこに寂しさはあったが、これで全てが終わる。
とうとう、絞り始めた。きつく絡みつく指の感触は悪くはない。血球が酸素を脳へ運び終えて仕事を失い行き場の無くなったまま、どくどくと巡ろうとする音が頭に響く。このノック音には心地良さすら感じ、私を包んでいる。
今この瞬間、己が生きているのだと間違いなく言える。先ほどまで感じていた頭を割るような鈍痛はきれいさっぱり消えて、なんでもできるような全能感が体を巡る。まさに死に際の全能感で、ちっぽけな自分の行いすら愛おしいと感じる。
対照的に首を絞めている彼女の表情は浮かない。申し訳なさを前面に押し出しているような顔で、半信半疑だった司さんを殺していないと言っていたことも真実なのだと感じ、こちらが申し訳なくなった。
ここで初めて彼女を心配する感情が沸いた。自分が提案したことなのでそう悩むことはないと思った。死んだらモドキの物になるので、肉体の欠損を気にしているのだろうか。しかし、指のほうは容赦も同情もなく私の首にぴっとりと絡みついている。
逃げないように途中から壁に押し付けられて、尚も続けられる執拗な絞首に、他人事に人間は案外丈夫なのだと感じ、ある種の興奮を覚えた。
これははじめて感じる全く別の感覚だった。理性のひだをかき分け溢れる湿った獣性は、彼女から押し殺したように漏れる吐息を妙に色っぽく感じ、じっとりとした汗は媚薬の役割を果たしていると思うほどだった。もしかしたら汗に本当にそんな効果があるのかもしれないが、そんなことはどうでもよく、ただ心地が良かった。彼女の感情も体も意識も、全てが自分に向けられているという自覚が充足感を産み、私を包んで離さない。
死とはこのようなものだと感じるほどに、大きく快感が体を駆け巡り予感が明確になっていく。
ねぇ、「死にたい」ってなんて軽い言葉なんでしょうね。死ぬことは本当に痛くて苦しいはずなのに、それを表現する言葉はなくて、ひたすらに同じ言葉が出てくる。
あなたと初めて会った時もそう、一緒に帰った時もそう、遊んだ時もそう、今もそう、私の口からは質量のあるものは何も出なかった。ごめんなさい、司さん、私ってホントにダメダメですね。「きもち」も「すき」すらも、質量欠損が起こり空気よりも軽くなってしまう。
こうして振り返ると、欲しいものはなにもなかったはずなのに、あなたのことばかりを考えている。俤に、貴女に伝えたいことがもう少しあったはずなのに、もう何も。そう、なにも浮かんでこないです。
もしかしたら、必要だったのは言葉ではないような気がしているけれど、結局分からなかった。ただ、君に触れたかっただけなのかもしれない。
―fin―
本作を読み終わった、または読み飛ばしてここまできた、皆々様の頭に浮かんだことは何でしょうか?「なんだこいつ、頭おかしいんじゃねぇのか?」、それとも「キモッ……!!酒に酔っていてもそんなの書かないだろ!」と嫌悪感と呆れが半々でしょうか。確かに、そう思う心はもっともでしょう。残念ながら、頭がおかしくもなく、完全に素面ですべて書いています。これは偏にきもすきへの「あい」が結実したものだという認識でよろしくお願いいたします。
書き始めた経緯としては、2ヶ月ほど前の、きもすきが休載してた時に急に、司さんが死んだら依子はどうなるんだろう?と、思いついて形にしました。どんな反応をするかや、どんな考えを経るかなど考察を深める機会になって良かったと思います。基本的には1巻の過去編が彼女の「思想」を考える上ではアツいですが、8月号(単行本では多分18話目)の話もそれと同様にアツく、依子という人間をよく知るための資料となります。
本作で書いたように、依子のアイデンティティは「司さん」という存在に依存している、それが崩壊した時にどんな反応を示すかなどを考えて書いた。といったように、かなり真面目に考察しています。依子のことについてはほとんど網羅できていると思うので、依子マニアの方にも満足していただける出来だと自負しています。
き も ち わ る い (褒め言葉)
拝読しました! 愛が、愛が重いです...
SS投稿のタイミングが被ってしまい申し訳ありませんでした...。それはさておき。
序盤の司さん (?) から触手とか色々出てくるところで、クトゥルフ的なあれを想像してしまいました。私が依子さんだったら即発狂してますね。
一方で、読み進めるうちに色々と考えさせられました。もし仮に好きな人が気付かぬうちに死んでしまい、異形の存在に身体を乗っ取られて眼の前に現れたら、そして想い人の本心をその異形の語りで初めて知ることとなったとしたら... などと。
かれにとっての "異形" である人間の気持ちは理解できないのか、それともかれなりの親切心なのか、かれはあくまで淡々とそれを語ります。でも、たとえそれが事実であろうとも、"本人" の口からちゃんと聞きたかった。ましてや、「嫌い」じゃなくて「好き」という答え。作中でも言及されていましたが、いっそ嫌われていた方が諦めがつきそうで。
大好きな人の姿をしたひとにはあるいは会えて、生前に考えていたことを知ることもできて、でもその人自身には二度と会えなくて。考えるだけでぞっとするし、依子さんみたいに自分の世界が全てその想い人でできているような状態だったら、自ら死を選んでしまうのも想い人にとどめを刺してほしいと考えるのも正直理解できてしまいます。
少なくとも司さんが既にいないことを知ったときの彼女はそうではないでしょうけど、息絶える最期の瞬間。依子さんは、果たしてしあわせだったのでしょうか。正体不明の異形が依子さんに成り代わったとしても、かれがそれを知ることはきっとないのでしょう。
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